【ナルト】我愛羅の名言いろいろ
漫画ナルトに登場する砂漠の我愛羅は砂隠れの忍びです。
幼少期は悲しい境遇から破滅的な行動を取る人物でナルト達にとっては最強最悪の敵でした。しかし、ナルト達との死闘を経て改心をし、物語の後半では風影にまで上りつめる素晴らしい人間に成長をしています。
そんな我愛羅だからこそ、深く考えさせられる名言は沢山あります。
今回はそのような砂漠の我愛羅の名言を、漫画連載当時から追いかけアニメまでも全話視聴してる、ナルト大ファンの私が、いくつか紹介したいと思います。
我愛羅の名言
我愛羅の名言・考察
漫画ナルトの序盤におけるトップレベルの強敵は、この我愛羅だと思います。
これは我愛羅の初登場時のセリフです。
怒り狂うサクラから逃げる木の葉丸が、中忍試験のために火の里を訪れていたカンクロウにぶつかってしまい殴られそうになる事件が起きます。
そこにサスケが助けに入り、「あわや戦闘か?」となるのです。しかし、サスケの後ろから我愛羅が木の幹に足を吸い付け逆さの状態で表れ、カンクロウを止めるシーンがあります。
この逆さの状態は、ナルトやサスケがカカシとの修行で苦戦した、チャクラを足の裏に集めて木の幹に吸着される技術です。
このセリフがある通り、我愛羅の実力の高さが伺い知れます。
ナルトの序盤は絶対防御の名に恥じぬほど、敵として強力で凶悪な無双ぶりを魅せる我愛羅ですが、物語の後半では毒気が抜けて砂隠れの里の風影として、素晴らしい忍びとなります。
我愛羅の名言・まとめ
以上、我愛羅の名言をピックアップして、ご紹介してみました。
この言葉がある通り、我愛羅と言うキャラクターのテーマは孤独です。究極的な孤独を味わった人間が、何を苦しみどう立ち直るのかが描かれています。
我愛羅のストーリーに限らず、漫画ナルトの物語ではしきりに「孤独」や「繋がり」なる言葉が出てきます。
汝の隣人を愛せよ
このイエス・キリストの言葉にあるように、「仲間って大切なんだな」って事を考えさせられる人は多いと思います。
しかし、私は漫画ナルトの世界は、どちらかと言えば、仏教における「縁起の概念」を表現したいのだろうと考えています。
縁起とは「他との関係が縁となり生起すること」です。
例えば私が生きるのに、まずは親の存在が必要です。親がいなければ、そもそもこの世に生を受けることすらできません。
また食べ物を供給するスーパーやコンビ二の存在が必要です。食べ物が無ければ生命の維持が不能だからです。
家が無いと生きていけません。家が無く外にずっといれば、雷の日などは落雷に巻き込まれて死んでいるかもしれません。
このように自分を中心に色々と因果関係を考えてみると、あらゆる人やモノ、現象が関係して私と言う人間が成立しているのが分かると思います。
仏教も大乗仏教と原始仏教があるので、教えてる事はバラバラであったりします。
ただ、開祖である釈迦の教えに近い原始仏教では、「友人や親なのだから無条件に大切にしなさい」とか、そのような無理な押しつけとも取れる教えは、あまりありません。
そもそも釈迦自体、妻と子を捨てて出家しています。
原始仏教は「私」という存在が成立するのに、どのようなモノが関わっているのかを冷静に眺め、自分の人生を謳歌するために必要なモノだけをピックアップしていきます。
悪い友もいれば悪い親もいるわけで、「友人や親なのだから無条件に大切にしなさい」とやっていると、本質を、どんどん見失っていきます。
現代日本は儒教的に無条件に親や上司に絶対服従などとやっているからこそ、ネグレクトやパワハラの末、精神を病んでしまう人が大量発生してしまうともいえるでしょう。
漫画ナルトは我愛羅のお話に限らず作品全般として、仏教的な要素が盛り沢山で、考えさせられるシーンが沢山あるので、気になる方は仏教の方もチェックしてみると、よりナルト世界を楽しめると思います。
過去記事で「怒られるのが怖い。その克服方法を紹介します」といったタイトルで記事を書きました。
これは「怒られる自分の立場への執着があるが故に自分を見失い、恐怖が増幅されている」といった事にフォーカスして記事を書きました。
漫画ナルトで我愛羅が親や友達との関係に執着して暴走してしまうのと、リンクする部分はあると思います。人は執着があるからこそ怒りも恐怖も増幅されて、手がつけられなくなるのです。
気になる方は、こちらの記事も是非、ご覧ください。
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